4.航空写真で見た海上の森
 
 空から森を見てみたい!
  昔はどうだったのだろうか?
 そんな夢の一部を叶えてくれるのが航空写真です。


T.海上の森 −昔と今−  U.海上の森は「はげ山」だったのか?


T.海上の森 −昔と今−

 次の航空写真は米軍により昭和23年に撮影されたものです。元々は白黒なのですが、緑に変換してあります(擬似カラー)。緑に変換してみると、白黒に比べて植生の判読がしやすくなるのはおもしろいことでした。場所は広久手第1池付近から屋戸川、寺山川を含む、500m四方です。陰影の関係で、右が南側です。


 撮影月日は1948年8月、右側を上から下に(実際は東から西へ)流れる吉田川筋の田圃は耕作されており、右下の広久手第1池の水位は大きく低下しています。

 散在する白色の部分は裸地です。写真の右上部分は花崗岩地帯であり、裸地はほとんど形成されていませんが、砂礫層の地域には多くのはげ山と崩壊地があります。樹木の生育がある場所も、点々と白い小さな部分があり、樹木は密生してはいないことがわかります。

【寺山川源流付近】

 寺山川の源流部分(中央部)には、こんもりとした樹林が写っています。現在はツブラジイなどの生育する、比較的良好な森林が形成されていますが、当時(50年前)から当時としては良好な植生が発達していたものと思われます。

【屋戸川付近】




 広久手第1池付近からの登り口から屋戸川の湿地への道をたどってみましょう。

 池の北側斜面は花崗岩地域です。航空写真にはモコモコした樹冠が写っていますので、50年前から比較的良好な樹林であったことがわかります。現在の@付近の植生は右のようになっており、コナラを優占種とする立派な林が発達しています。

 池を通り過ぎて山道にかかります(A付近)。現在はこの地域は植林されています。アップした航空写真ではファイルサイズの関係で見えにくいのですが、当時から植林地であったようです。
 峠にさしかかる少し前からマツ林になり、砂礫層地域になったことがわかりますが、その場所には砂防堰堤があります。その上流域は、現在は樹林に覆われていますが、堰堤構築時には大きな裸地があったことがわかります(ハート型の裸地)。


 尾根筋(B付近)は、植生の構成種としては樹高が違う程度で現在とあまり大きな違いはないかもしれません。現在の尾根筋では、50〜60年生程度の生長の劣悪なアカマツが生育しており、モチツツジなども見られます。林床にはハナゴケ・トゲシバリなどの地衣類やコケ植物の生育も見られ、痩悪林地であることがわかります。


 峠の鞍部地形の場所(C付近)は、まるで下刈りを行っているかのような、低木層がほとんど発達していない森林が発達しています。この場所で枯損していたネズの年輪は85以上あり、樹木によっては90年程度の期間、伐採されていないと思われます。航空写真からは、50年前の時点から植生(おそらく低木林)が発達していることがわかります。もっと多くの樹木の樹齢を調べないと断言はできませんが、100年近くは伐採されていない森林であると思われます。

 山道を下って行くとシデコブシの生育する谷と交わります(Dの谷)。点々と低木が生育し、その間からおそらくコシダと思われる草本の生育している状況であると思われ、この地域も基本的には現在と大きな違いは読みとれません。おそらく、樹高が高くなっている程度ではないかと思われます。



U.海上の森は「はげ山」だったのか?

  海上の森ははげ山であったとする意見があります。ここでは、海上の森について、昭和23年の航空写真を参考にしつつ、歴史的な観点も合わせて述べてみたいと思います。


1.はげ山とは?
 無立木地を荒廃林地といいます。樹木が生えていない原因にはいくつかありますが、伐採した直後などは、荒廃林地には含めません。火山噴火などの場合を除き、千葉(1991)は荒廃林地を次のように分類しています。

 海上の森地域に見られる荒廃林地は、主として地滑り型とはげ山型であろう。

2.はげ山の発生する理由
 日本におけるはげ山の分布は、岡山を中心とする瀬戸内海の中国側が広く、典型的でした。分布図を見ると、この他京都を中心とする地域、濃尾平野を取り巻く地域などにも集中分布が見られた。
 はげ山の発生の原因は、基本的には過度の森林利用である。燃料用の薪炭材採取、堆肥などに使用するための落葉・落枝・柴木採取等によって、集落周辺の森林からは大量の有機物が採取され、搬出された。有機物の搬出に伴って、植物体に含まれている栄養塩類などは域外に運び出され、森林からは栄養素が大量に失われてしまうことになる。土壌が豊かである場所では比較的植生の回復は早く、裸地化しにくいが、表土が失われてしまうと急速に裸地化が進行し、さらに表土が流亡する悪循環となってしまう。

 はげ山の発生は、基本的には森林の過剰利用に起因するものであり、人口密集地域の周辺で発生しやすい。しかしながら、気候的要因と地質的要因も非常に重要である。瀬戸内にはげ山が多い事実は、温暖・小雨を特徴とする気候的要因と共に、この地域が花崗岩を基盤岩とすることも大きく関係している。
 花崗岩は風化すると排水性の高い土壌を形成する。したがって植生の定着・回復は遅れやすい。いったん裸地になると雨水などにより侵食されやすく、ガリー(溝)が形成されやすい。

3.岡山のはげ山
 ここで、岡山県玉野市のはげ山の例(花崗岩地域)を示そう。次の2枚の写真は、昭和23年(1948)米軍撮影の写真と1990年撮影の、同じ場所である(陰影の関係から、南北が逆転しています)。
 昭和23年の航空写真では、植生が成立しているのは、谷の一部のみであり、斜面には数多くのガリーが発達していることがわかる。はげ山化は南側(上側)で顕著であり、強い日照が土壌の乾燥化を引き起こしていることがわかる。
 この地域の隣接地には造船などの工業地帯があり、多くの人口が背景として存在している。あまりにも山地の荒廃が著しく、山から流れ出る大量の土砂によって小川は天井川となり、水田は排水不良となって、畑作もできない状態になったという。このような森林の荒廃は工業化の始まった明治以降において顕著になり、さらに第二次世界大戦直後には造船業が衰退し、生産活動が低下したために薪の購買力が低下し、周辺の森林は極度に荒廃したという。この地域には銅の精錬による大気汚染もあり、乾燥気候と地質要素も加わって、森林の回復は絶望的な状態であったと思われる。このころ、1949年から50年の1年間で、河床が1.2mも上昇した場所もあったとのことで、いかに激烈な荒廃であったかがわかる。下の写真は、ちょうどその頃のものである。


【終戦直後の玉野市;谷底にわずかに植生が発達し、たくさんのガリーが発達している】


【現在の玉野市;右下は山林火災跡地、階段工の名残が見える】

上の写真は、同じ場所の42年後(1990)の姿である。山腹を階段状に整地し、クロマツ等とオオバヤシャブシなどの肥料木を植栽する「階段工」を実施して森林を回復している。大変な労力と資金を投入しての治山事業であるが、下側半分の地域は山林火災によって焼失してしまった。むなしい限りである。

 次の2枚の写真は、同じく玉野市に残る、現在のはげ山である。この地域は階段工などの積極的治山回復を実施せず、自然のままに計画的に放置された場所である。はげ山保存地域といえよう。谷部を中心にマツ類が定着・生長し、はげ山の部分は狭くはなっているものの、依然としてこの状態である。周辺の森林と比べると、階段工などの治山植林の有効性がよくわかる。一部には、右の写真に見られるような、深さ数mにも及ぶガリーが発達しており、特異な景観となっている。


【玉野市のはげ山保存地(写真提供:大西智佳氏)】

4.海上の森はどうであったか?
 次に示す3枚の航空写真は昭和23年米軍撮影の海上の森地域のものである(陰影の関係で、左側が北になっています)。

 ○1枚目は山口洪水調整池周辺であり、せいれい町・若宮町・屋戸町などの範囲が示されている。洪水調整池は、現在は土砂がたまって完全に埋まってしまっている。この地域は岡山玉野市ほどではないが、ひどい荒廃地である。この地域の地質は、山砂利層であり、元々保水力が低いためにはげ山になりやすい地域である。尾根筋には耕作地もあり、戦時中の開墾もはげ山化を促進していた可能性がある。



 ○下の写真は、屋戸川・寺山川などの山砂利層地域のものである。左上に四ツ沢の一部が示されている。尾根部ははげ山となっており、山腹には地滑り型の荒廃林地が散在していることがわかる。地滑りが発生した跡地の中心部分は、湧水があり水分条件が良好なために植生が早期に回復しているので、緑色濃く示されている。
 確かにはげ山が発達しているが、その面積は岡山の事例などと比べるとずいぶんと穏やかなものであり、山裾から眺めると、地滑り跡地を除くと、頂上や尾根部分にわずかに無林地が見える程度であったと思われる。



 ○次の写真は、海上の集落付近の航空写真である。本来ははげ山を形成しやすい花崗岩を基盤とする地域であるが、はげ山はほとんどない。一部には山砂利層が尾根部に乗っているが、その場所もはげてはいない。谷などの水分条件の好適な立地にはスギなどの高木が見られ、現在の樹木の大きさには比べるべくもないが、結構な森林が発達しているといえよう。右下の丘の上には部落のお寺(?)があるが、この社寺林は伐採された直後である。再生の様子から、大径木が伐採された可能性が高い。現在はコジイの中齢林として再生しているので、戦時中にコジイの大木を伐採・供出したのではなかろうか。


 このように見てくると、はげ山化しやすい地質条件にありながら、海上の森地域のほとんどは強度の森林荒廃から守られてきたといえよう。山砂利層地域における森林伐採は、軽度であっても尾根筋のはげ山化を容易に招くはずである。そのような条件下にありながら、荒廃はむしろ地滑り型の崩壊が目立ってしまう状況である。さらに、海上の集落周辺の花崗岩地帯では、完全にはげ山化を未然に防止する森林管理が実施されてきたことがわかる。
 このように、海上の森地域のほとんどは「上手に森林を管理・利用してきた」といえる状態が昔から継続されてきたわけであるが、その原因の一つとしては、支えるべき地域の人口がそれほど大きくなかった事が考えられるであろう。平野に接する地域の荒廃ぶりと比べると、大きな違いである。
 森林からの薪炭材の採取は、昭和の中期(35年頃)の家庭燃料が化石燃料へ転換されるまで続いた。したがって、これらの提示した写真以降においても伐採が行われた可能性があるが、1965年、1974年の航空写真を見る限り、大規模な伐採は、少なくとも山砂利層地域においては行われていない。恐らく、この100年近く、全面的な伐採はなかったであろう。少なくとも、戦後からは順調に現在まで回復してきたわけである。


5.東濃地域における森林荒廃の歴史
 東濃地域における荒廃林地の多さに関し、その原因を窯業に求める意見がある。これに対し、千葉(1991)は次のような論拠により反論している。

 このような窯業と薪の関係をみると、興味ある事実を読みとることができる。マツ割木を必要とする陶器製造が始まる前は、カシなどの広葉樹の薪でも良かったわけである。農用林としての里山は、柴木や落葉などを採取するわけであり、基本的には広葉樹林が好ましい。生えてくる松を除去した例もあるという。このように考えてくると、農用林としては不適なアカマツ林が経済価値を持つようになり、広い範囲に広がっていったのは、ここ200年。このマツ林が過剰利用される傾向が顕著となったのは、陶器生産が盛んになった、ここ100年程度であるということになる。

 千葉は多治見・高山地域の荒廃林地の解析から、この地域の荒廃林地は森林の過剰利用によるはげ山型荒廃林地も存在するが、地滑り型荒廃林地の存在が大きいことを指摘している。地滑り型荒廃地は陶土層存在地域に多発しており、はげ山型荒廃林地は花崗岩地域に多い。はげ山型荒廃地が人口の増加と窯業の急速な発展に伴うものであると考えれば、窯業の発展以前(少なくとも1800年代初頭以前)の大規模な荒廃林地の存在は、地滑り型荒廃林地であったと考えることが妥当であろう。
 地滑りの原因は、基本的には地質構造によるものであって、人為的なものではない。しかしながら、陶土の採掘作業が地滑りを誘発した可能性は高い。また山砂利層の表層に発達していた森林を伐採することにより、植生の水使用量が減少し、結果として地下水量が増加したことの影響も無視できないであろう。このような人為的要素はありながら、長い歴史の中で(人為の有無に係わらず)砂礫層地帯は構造的に地滑りが発生する地域であることは間違いない。そのような湧水の存在と地滑りの発生がシデコブシなどを中心とする東海丘陵要素の植物群の生育立地を保証してきたに違いない。

参考文献
 千葉徳爾(1991) はげ山の研究.349pp. そしえて.


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