湿原とはどんなものか


(1)湿地と湿原
 湿っている場所を湿地 wet land という。湿地は非常に大きな概念を持つ言葉であり、浅い湖沼、沼沢地や水田なども湿地という概念の中にはいる。ここでは、湿地の中の「湿原」について述べていく。

 湿原とは、植生学の立場では「湿原とは湿原植生の発達する立地である」と定義されるのであるが、これでは堂々巡りになってしまう。端的に定義すれば、「湿原とは過湿・貧栄養の地に発達する自然草原である」と表現できる。もう少し詳しく述べれば、水位は地表面付近であり、その水質は貧栄養であって、樹木などの大型の植物が生育せず、モウセンゴケやミズゴケ類などの湿原特有の植物の生育によって特徴付けられる自然草原である、と定義できる。

 日本では、現在は草原であっても放置しておくと次第に遷移し、樹木が侵入して森林へと発達してしまうことが多い。自然状態で形成される草原は、高山地帯、風の強い海岸や山頂などの風衝地などの、環境条件が極厳しい場所にのみ存在することができる。湿原も同様に、厳しい環境条件の下に発達しているのである。湿原の厳しい環境条件の一つに、地下水位がある。しかしながら水が地表面付近にある場所が全て厳しいわけではない。水田は同様な条件にありながら、豊かな生産性を示している。

 湿原を理解するためのキーポイントは、「貧養」である。「貧養」とは、養う力に乏しいということである。土壌中にたくさんの栄養塩類が含まれていたとしても、植物に供給されにくい状態であれば、「貧栄養」であって、その立地は「貧養」となる。現実に、湿原独特の土壌である「泥炭」には偏ってはいるものの、かなりの栄養分が含まれているが、通常は過湿・低温・酸性の条件の下、栄養塩類が含まれている有機物は分解されにくく、植物には栄養塩類を供給していない。要は、何らかの条件によって植物が栄養塩類を吸収できない状態になれば、貧養であって、水分が過剰に存在すれば、それは湿原植生の発達基盤となる。

(2)湿原の環境形成能力
 湿原は、冷涼な地域で典型的に発達する。その原因は、気温が低いために有機物の分解速度が遅く、特に過湿な条件では有機物分解されずに堆積して泥炭が形成されるためである。泥炭が形成されると、有機物に含まれている栄養塩類は放出されずに埋没してしまい、植物が吸収することができない。栄養塩類の循環系列の中からは、失われてしまうわけである。

 泥炭の形成速度は、有機物の堆積速度と分解速度の差であるので、ツンドラ地帯では植物の生産量が少ないので、分解速度が遅くても泥炭の堆積速度は遅い。温暖な地方では、生産量は多いが分解速度が速いために泥炭形成量は少なくなってしまう。その結果、冷温帯から亜寒帯で最も泥炭が形成されやすい。

 泥炭が水で飽和されている場合には酸素不足となりやすく、かなり強い酸性(pH4〜5)となることも、有機物の分解を遅くする条件の1つである。これは微生物の活性が低下するためである。泥炭は殺菌作用もあるとのことで、第二次世界大戦中にはガーゼの代用として傷の手当に使用されたこともあるという。分解しにくいはずである。

 泥炭の形成速度はこのように気候あるいは立地によって大きく異なっているが、泥炭が形成されると地形が次第に変化することになる。湿原植生にとって、最も好適な場所では更に泥炭の蓄積が行われ、周辺より次第に高くなる。一方、周辺から水が流入する地域では無機塩類が供給されるためにpHも低下しにくく、有機物が分解し安いために急速な泥炭の蓄積はおきにくい。

 このように、湿原は泥炭の蓄積により自ら地形を改変する。環境形成能力があるのである。この環境形成能力は、泥炭の堆積速度に大きく依存しているので、冷涼な地域では湿原が典型的に発達し、温暖な地方では環境形成能力が低いために湿原の存在は周辺環境に大きく依存して存在することになる。

(3)地形から見た湿原の分類
 湿原は高い環境形成能力を持っているので、発達にともなって独特の形態を示すようになる。このような地形に着目し、地理学では湿原を高層湿原、低層湿原、両者の中間的性質を持つ中間湿原の3つに分類している。この概念は、地形的なものであって、海抜を意味しているわけではない。植生学においても、同様な分類が行われているが、これらは生育している植物の種組成に基づくものであって、両者が完全に一致しているわけではない。つまり、地形的には中間湿原ではあっても、生育している植物は高層湿原の植物である場合がある、ということである。このような立場の違いはさておいて、主に地形から湿原を分類してみよう。

低層湿原 Low moor  −ヨシ・ガマなどが生育する沼沢地−
 周辺からの流入水により涵養される湿原である。周囲よりも湿原の発達している場所が低いので、流入水の影響を強く受けて成立する。流入水は多少なりとも栄養塩類を溶かし込んでいるので、特別な場合を除いて土壌は中性付近であることが多く、有機物の分解速度は比較的速い。無機土壌成分も供給されるので、土壌は良く分解した不定形の有機物と粘土やシルトなどから構成されていることが多く、温暖な地方では無機成分が主成分となる。
 流入水により栄養塩類が供給されること、有機物の分解が比較的迅速に行われるために栄養塩類の循環も良好であることなどから、このような湿原は富栄養であり、生育する植物も大きく生長するものが多い。
 植生学的にはヨシやカサスゲなどの生育を特徴とし、ヨシクラスと呼ばれる。

高層湿原 Height moor
 主として雨水により涵養される湿原を高層湿原と呼ぶ。低層湿原において堆積が進行するとやがて周囲よりも盛り上がって、流入水の影響を受けにくくなる。典型的なものでは、時計皿を伏せたようなドーム状地形が形成される。このような状態になると周辺からの流入水は、湿原全体を支えるためのベースとして機能するものの、盛り上がったドーム上に発達する植生にはほとんど無関係となり、植生は雨水や雲霧などの降水により養われることになる。降水には栄養塩類はほとんど含まれていないので、貧栄養な条件下でのみ生育が可能な植物からなる植生が発達することになる。
 このような泥炭の堆積した高層湿原は冷涼な気候で発達する。冷涼な気温は、有機物の分解を遅らせて泥炭の蓄積を促進し、空気中の水分飽和量が低いために雲霧を発生させやすく、湿原が乾燥しにくくさせているのである。したがって、温暖な地方や乾燥する地域では高層湿原は発達できない。
 植生学的には

中間湿原 Intermediate moor
 高層湿原と中間湿原の間に位置する移行帯の湿原を中間湿原と呼ぶ。水分条件としては高層湿原よりも豊富であり、水質的にもやや富栄養であって、高層湿原よりも草丈の高い植物が生育する。
 植生的には、地形的には低層湿原であっても、貧栄養な湧き水などによって養われている場合には貧栄養性の湿原植生が発達する。このような湿原も中間湿原と呼んでいる。したがって、泥炭が蓄積しにくい温暖な地方に発達する貧栄養性の湿原のほとんどは、この中間湿原の植生が発達していることになる。

 狭義の湿原は、貧栄養性の高層湿原と中間湿原を指しているが、地名として○○湿原などと呼ばれる場合には、高層〜低層の湿原植生を含んでいることになり、むしろ湿地に近い使い方であることになる。以後、ここでは湿原は、狭義の貧栄養性湿原を意味することとする。

(4)発達・成因からみた湿原
 a.湿原の遷移
 湿原の遷移は、「浅い沼沢地が次第に陸化し、湿原が発生し、湿原はやがて泥炭の堆積などと共に乾燥化し、森林へと変化する」とされている。この遷移は「湿性遷移系列」とよばれ、教科書などに広く掲載されている。この遷移系列は、北欧などのひとつのタイプの湿原に対して考えられたものであり、全ての湿原に対して正しいものではない。

 日本の高層湿原の多くは発達しても樹木が侵入することは少なく、樹林へと遷移することは、人為的な水路の掘削などの乾燥化がなければ、湿原は自らの環境形成能力により、次第に発達して面積を広げるのが普通である。日本有数の高層湿原である尾瀬ヶ原に置いても、将来は樹木が侵入して森林化するとの掲示がなされているが、これは正しくない(この看板では、湿原の一部に森林が存在しており、それを事例としているが、尾瀬ヶ原の湿原中に発達している湿原は、湿原の中を流れる河川がもたらす水と無機土壌に起因するもので、拠水林と呼ばれるべきものである)。

 沼沢地に土壌が堆積して地下水位が地表面付近となった時点で、沼沢地は森林化への方向と、貧栄養性の湿原へ遷移するかの分岐点がある。無機質土壌が継続的に流入する場所では通常の森林化が進行する。流入水量が少なく、貧栄養である場合には湿原植生が発達し、ミズゴケ類が繁茂する状況となれば高層湿原へ向かう遷移系列へと分岐することになる。
 
 b.湿原の成因
 陸化型湿原
 浅い湖沼や沼沢地が泥炭などの堆積により陸化することによって形成された湿原。火山の火口跡地などにできやすい。典型的なものは少なく、貴重である。長野県霧ヶ峰八島が原湿原が典型的。

 谷湿原
 谷が土砂や泥炭などで埋没して形成された湿原。多くは谷を流れる水路が自然堤防を形成し、その後背湿地が主な発生立地である。多くの湿原はこのタイプである。

 湧水涵養湿原
岩盤や粘土層などの不透水層からの湧水によって涵養される湿地。小面積ではあっても地質・地形的な条件があれば、発生する。低層湿原から遷移して形成されることなく、発生当初から中間湿原の植生が発達するので、初生貧養湿原とも呼ばれる。

(5)湿原の成立条件
・常に安定した過湿条件が保たれること
 湿原の植物は過湿条件に生育しておりながら、意外に水没に対する抵抗性は低い。典型的な湿原の植物は、小型の植物が多いので、定常的な水位変動があると湿原植物は草丈の低い植物から順次消滅してしまう。
 降雨時にも濁流が流れないためには、集水域が狭いことが必要である。集水域が広いと豪雨時には水位が大きく上昇すると共に、無機土壌が流れ込み、湿原植生は形成されにくい。一方、長期間無降雨であっても一定以上の流量が存在しなければならない。このためには、湧水の存在があると実現されやすい。
 このような集水域の狭さと安定的な流量の存在という、相反した条件を備えた立地は稀であり、湿原の存在が貴重である原因の一つである。

・供給される水が貧栄養であること
 水質が富栄養であると、大型の植物が生育するために小型の湿原植物の生育は困難になる。水質の計測には含有成分の検査などもあるが、電気伝導度の計測が簡便である。電気伝導度は水中にイオンが存在すると電気が通りやすくなることを利用したもので、溶存するイオンの量に比例した数値である。純水に近いほど数値は小さく、たくさんのイオンが含まれていると大きな数値となる。
 表は電気伝導度の数値と発達する植生の目安を示したものである。実際には流速や日照度などでも植生は異なっており、大まかなものとして考えていただきたい。

 表.水の電気伝導度と発達する湿原植生の目安(波田・西本・光本、1995)
電気伝導度(μS/cm)植生の状況
〜35                                           湿原植生の成立には最も適している。湿原植生の群落高や植被率も低い。植生がまばらであるためにモウセンゴケ等の草丈の低い植物が繁茂しやすい。植生の回復には時間がかかる。池でも植被は少なく、点在する程度。浮葉植物よりもシャジクモ類等の沈水植物が主体。
〜55                                        湿原植生を成立させることができる。植生はやや発達が良好で、イヌノハナヒゲ類が繁茂し、全面に芝状の植生が発達する。池ではタヌキモ類、ジュンサイ、ヒルムシロ類等、多様な植物が生育する。
〜75                                        湿原植生の成立に関しては境界領域。草丈の高いカモノハシ、ノハナショウブ、スゲ類などが生育する植生となり安い。長期的には湿原植生の維持が困難かも知れない。池では沈水植物が減少し、ヒシ等の浮葉植物が多くなり、単調となり安い。
75<                         湿原植生が成立する可能性はほとんどなく、カサスゲ・アゼスゲなどの優占する植生となる。池ではヒシとウキクサ類が優勢であり、単調である。


 雨水の電気伝導度は一桁台〜20未満程度の数値を示すことが多く、河川(水道水)で80以上、富栄養な沼やドブで150以上の値となることが多い。「○○の水」などとして市販されているミネラルウオーターの中には、200以上の値を示すものもある。これらのことから、湿原の水を水道などから得られる可能性はまずないと考えなくてはならない。

・日照条件
 湿原の植物は過湿・貧栄養という過酷な条件に生育しているが、一つ良いことがある。適応できる植物が少ないために、生存競争の圧力は低く、十分な日照が期待できる。逆に言えば、日照が強く制限されると湿原の植物は生育が困難になる。
 湿原の周辺は、通常森林であるので森林の樹高が低い場合には狭い湿地であっても湿原として存続することが可能であるが、周辺森林の樹高が高い場合(あるいは高くなる可能性がある場合)には、相当な面積が無ければ湿原として存続することは困難である。
 谷湿原の場合、南北方向の谷では周辺の樹林がある程度高くても、時間は制限されるものの直達光の存在が保証されるが、東西方向の谷では南側斜面の樹林が発達することにより、日照足となりやすい。



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