ヒイゴ池湿原に関する保護保全に関する研究


ヒイゴ池に発達している湿原に咲くサギソウ


はじめに

 高速道路を典型とする線的性格の強い開発は、地域の自然に対して高いレベルの配慮を行うことに困難な場合があり、貴重生物に大きな影響を与えるなどとして、しばしば問題点を指摘される事例が発生する。流域に影響を与え生態系を分断するなど、面積の割合に比べて自然に与える影響が大きい。これに関しては、今後、回避するための調査がますます重要になってくるであろ。
 開発はどのようなものであっても自然に対し影響を与えずに行うことはできない。ますます大規模になる開発に比べ、自然に与える影響の回避のあり方やミティゲーション(代償措置)に関する技術は確立されているとは言い難い。貴重であると判断される生物、およびそれの生育・生息を保証している生態系に関する学術的知見はごくわずかであると言ってよい。逆に言えば、わからないから貴重であるといっても良いのである。このような状況の中、注目される動植物の保護・保全に関し、いまだ単なる種の移植が各地で行われていることは残念である。貴重種・注目種の移植は、それらの種を「目印」とした生態系の移植・創造としての観点で行われなければならない。
 本報告では、生態系を移動させた事例の一つとして、高速道路の建設にともなう、湿原の一部移設、保全、新たな生物の生息環境の整備(ビオトープの創成)について報告する。
 稿を始めるに当たり、本研究はこれに対処する検討委員会、道路公団、地元自治体(総社市)などの積極的対応と努力に基づいてなされたものであることを記しておきたい。



本研究の背景と経緯

 山陽高速道路建設に際し、市民団体等の指摘により、総社市地内の建設予定地に湿原が存在することが明らかになった。問題が提起された段階においては、すでにハンノキ林などは伐採されており、伐倒された樹木が積み重なったままの状況であった。このような事態が生じた背景としては、当時のアセスメントが現地調査を必要としない、文献調査を主体としたものであったことがあげられる。航空写真の判読では、植林されたスギとハンノキ林の間に小面積の湿地が散在している状況を確認することは困難であったものと思われる。
 湿原に関する市民団体の申し入れは、当該地である「ひいご谷」一帯に湿原植生が発達しており、貴重な自然を保護するために高速道路のルート変更および工法の変更を要望するものであった(1993年夏)。工法に関しては、湿原部分を橋梁でまたぐ案などが提示されたが、そもそもトンネルの入り口付近であり、部分的には湿原面よりも低い場所に道路が計画されている部分もあって、対応は困難な状況であった。
 日本道路公団では、これに対処するために委員4名の他、アドバイザー、公団、事務局からなる委員会を発足させ、湿原の現状調査、成立要因の解析などを行い、湿原の評価とともに保護保全策について検討を行った。
 委員会では、現地調査の結果に基づき、@サギソウなどの生育する良好な湿原植生の存在、Aその周辺にはやや沼沢性の高い湿原植生やハンノキ林が達していること、B流下する流路が下流側から湿原を浸食しており、これにともなう乾燥化によって面積を減じつつある湿原であること、などが明らかにされた。このような現状と道路建設計画を重ね合わせると、良好な湿原植生の1/3、やや沼沢性の低い湿原植生のほとんどが道路、側道、代替えため池などの建設により消滅する計画であることが判明した。



保護・保全に関する基本方針

 委員会では湿原に関する現況調査をふまえ、岡山県での湿原造成や湿原植生移植などの先行事例(波田ほか,1995など)から得られた知見を参考に、次のような対策を行うよう提言した。

 これらの対策を実施することにより、当該地の湿原植生をよりよい形態で保全することとした。湿原の一部は公団用地外であったが、これについても地元自治体が購入し、併せて一体的に管理することとなった。



湿原の成立条件

 湿原などの成立に厳密な環境条件が必要な生態系を創造あるいは移設する場合には、水質や流量などの環境を完備できることが大前提となる。
 湿原が発達していない場所に、新規に湿原を造成する場合には、成立に関する環境条件のほとんどが備わっていない場合が多く、困難な場合がほとんどである。今回のような、元々湿原が発達している場所では、水量を十分確保でき、地形的な条件を整備できる条件がそろえば、ある程度のハンドリングが可能である。
 湿原植生の成立条件を要約すれば、貧栄養の水が安定的に供給され、可能な限りゆっくり流れることにある。地形的には集水域が狭く、降雨時にも濁流が流れず、緩傾斜地であって不透水層の存在などの条件も必要である。
 これらの湿原成立条件および当該地の特性等を把握すること、そしてそれらを関係者が理解することが、計画立案、工事の実施、完成後の管理の成否に関する大きなポイントである。



工法および工事の実際

 本稿では、紙面の関係もあって、湿原植生への施策を中心に述べることとする。
@湿原地形の造成
 湿原の中部から下流部にかけては深さ2mにもおよぶ浸食谷が形成されており、この谷が湿原面積を狭めていると同時に、乾燥化を促進していることが判明した。これについては近隣の工区から比較的微粒成分の多い花崗岩風化土(マサ土)を搬入し、埋め戻した。
 湿原の下流側地域には排水溝が掘削されており、樹林地となっていたが、伐採後に表土および樹木の根茎を除去し、植物の種子等を含まない土壌で地形造成を行った。この地域は当面の仮移植地とし、その後、湿原域を拡大して工事により消失する地域の植物移植地とした。
 これらの地形造成を行った地域は、植生が発達するまでの期間に降雨等によって侵食されやすい。木杭や工事発生岩などを利用して土止めとし、流れによる浸食防止を行った。
 湿原内を流れる流路の内、侵食傾向が著しいものは埋め戻しを行い、あらたに周辺に水が行き渡るよう水路を掘削したり、パイプによる導水を行った。この結果、湿潤面積は大幅に広げることができた。
A仮移植
 道路本体工事および湿原地形の造成工事に関わる地域に生育していた湿原性植物については、プラスチック製の篭や発泡スチロール製容器に入れ、仮移植した。
 本工事では面積を拡大したために湿原植物の不足が懸念され、徹底的な採取に心がけた。
B周辺低木林の伐採
 温暖な地域に発達する湿原は、次第に遷移して森林化する傾向が高い。当該地においても浸食谷による乾燥化の影響もあってイヌツゲやハンノキなどの樹木の侵入が目立ち、湿原域を狭めていた。
 これらの観点から、湿原周辺部の灌木類のほとんどは景観的要素を持つもの以外は伐採し、人力により搬出した。これらの灌木はやがて再生してくると予想されるが、将来の管理によって適宜伐採することで対処することとし、抜根は行わなかった。この低木林の林床にかろうじて残存していた湿原植物は、1シーズンで緑被として回復した。
C湿原植生の移植
 植生の移植は上流側から順次実施した。植生の配列は、上流側に中心植生であるイヌノハナヒゲ類の優占群落を、下流側にはノハナショウブなどの背丈の高い植物を植栽し、貧栄養→中栄養の順となるよう配慮した。
 本湿原に関しては、湿原面積を拡大したので植生の量は不足した。植栽の方法は鱗状植栽と株植えである。鱗状植栽は水の流れを分散・滞留させるように小さな池状地形を連続させるもので、比較的傾斜が急な地域で実施する。株植えは傾斜のほとんどない場所で実施した植栽法であり、植生量の少ない場合に有効である。
D水量の管理
 当湿原へ供給される水は上流域への降水が浸透し、開けた谷に伏流水となって供給されるもので、降水量に大きな影響を受ける。調査開始年は渇水異常年であり、この影響は湿原の水位変動となって表れた。この湿原は供給水量の大きな変動の元に発達していたものであることが推察された。
 湿原への供給水を安定的に得るために、谷頭部に井戸を掘削し、これから自然流下によって導水を行った。しかしながら井戸そのものの水量が季節によって大きく変動し、根本的な解決策とはならなかった。
 このような状況を打開するためにトンネルからの湧水を導入する施設を建設した。ただし、現時点においてはpHが高く、将来の清浄化を待って利用する計画である。
 降雨時の濁流を防ぐために、湿原内の要所にはオーバーフロー用の升を設置し、側溝に配管を行った。自然の湿原では、このような水系が自然に形成されているが、人工的に広い面積を湿原化するためには、このような方法が有効である。
Eその他の工事
 これらの他、降雨時の土砂流入を防止するために、上流側に蛇篭による堰堤と水路および沈砂池を設置した。湿原と道路本体との境界部に設置したフリューム側溝への漏水防止には数々の対策を施し、境界部のコンクリート壁はに化粧パネルを使用し、景観に配慮した。
 下流側に建設された沈砂池の壁面は玉石積みとし、最下部のため池護岸の内、湿原に隣接する部分は、多様な生物の生息空間となるようトンネル掘削時に発生した礫積みとした。
F今後の管理計画
 本湿原は地元自治体である総社市に移管された。移管の際には管理マニュアルとともにチェックシートが作成され、実際の管理実習が行われた。
 チェック項目は水量、水質、水路・パイプ等の詰まり、湿原植物の成育状況、雑草の侵入、木本の成育状況、来訪者によるインパクト等である。
 今後、これらのチェックシートに従い、現状を調査しつつ、管理あるいは適切な順路の設定などを行う計画となっている。



結果と評価

 湿原植生への可能な限りの影響防止のための工法採用、隣接地の買収、周辺樹木の伐採、造成と埋め土による湿原域拡大、開発予定地からの湿原植生の移植、湿原下流側の浅い沼沢地の造成、安定的な水量確保のための井戸の設置およびトンネル湧水の導入施設の建設等の施策により、ハンノキ林などの樹林地面積は減少したものの、中心となる湿原域は大きく広げられ、発見当初の状況に比べ、格段の面積とともに安定性を得ることができた。植栽した地域がもくろみ通り回復すれば、湿原植生の発達面積は470uから2240uと約5倍となる。
 現状については、夏期の水不足などの状況もあったが、湿原植生はほぼ良好な状態となっており、植生の移植地においても部分的には移植したことすら認識できない状態にまで回復している。しかしながら、施工直後でもあってやや富栄養化の傾向がみられるが、この傾向は年月とともに安定化し、本来の姿へと戻るものと思われる。湿原下部に建設した「トンボ池」には多数のトンボが飛翔し、水生昆虫なども豊富となりつつある。
 これらの現状から、地元自然保護団体からも高い評価があり、機関誌に評価する旨の記事が掲載されたところである。今後の管理に関しては、地元自治体が自然教育に利用する方針で検討しており、地域の貴重な自然として長期的に管理されるとともに、教育などに活用される自然として、価値の高いものへと位置づけることができた。
 端緒としては高速道路の建設において事前の調査が不十分であったことによるものではあるが、結果としては消滅していく運命を持った湿原を将来にわたって安定的に保全することができたことを評価したい。

本文は下記のものを一部改定し掲載したものです。
    波田善夫、1997.高速道路の建設にともなう湿原の移設とビオトープの創生.道路と自然、(95):36-39.日本道路緑化協会.東京.


【経費等諸データ】

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