松枯れ病 (中国新聞コラム,『緑地帯』に1987年掲載)

  1.終息と流行
  2.見事な共同作業
  3.松林の歴史
  4.苦節十年
  5.永遠の放浪
  6.武士は食わねど・・・・
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1.終息と流行 (1987.03.30)

 実験室の窓から外を眺めていると「先生,今年の紅葉は早いですね.松も紅葉するんですね」との女子学生の声.15年前の10月のことであった.

 そのころ,岡山県南部は松枯れが最もひどい時期であり,全山まさに紅葉したように見える時期であった.松枯れ病による松枯れは,夏の終わりに起こり,突如として見事な赤色に紅葉する.やがて,松林は幹だけの白骨林となってしまい,見るも無惨な状況になる.最近は幹も倒れてしまい,跡すら確認するのが困難な状況となってしまっているところもある.

 松枯れ原書の原因は,当初公害の影響であるとの意見もあり,公害への関心が高かった時代背景もあって,議論が巻き起こった.公害は誘因であった可能性はあるが,現在では,松枯れ病の主役はマツノザイセンチュウ(松の材線虫)と呼ばれる小動物であり,これをマツノマダラカミキリというカミキリムシの一種が媒介して伝染させる事実が分かっている.
 歴史的にみれば,松枯れ病は終戦直後に西南日本で発生をみた.病原の材線虫はアメリカからの帰化動物であり,米軍の進駐にともなって,持ち込まれたものであろう.当時はGHQの指示により,徹底的な伐倒駆除が行われ,結果的には全国的な流行には至らなかった.

 当時は家庭の燃料が,薪や炭を中心としたものであったから,被害木が燃料として利用されたことも大きかったと思われる.家庭燃料が石油エネルギーにとって代わられ,被害木が除去されなかったことも近年の大流行の一因であろう.

 松枯れ病は渇水年とその次年度に多発すると言われている.一昨年は渇水の異常年であったが,意外に松の枯損は少なく,中国地方のほとんどの地域では終息状況に至っているようである.現在,松枯れ病が流行している場所は東北地方であり,林業にとって大きな驚異となっている.東北地方には病原の材線虫を媒介するマツノマダラカミキリは分布していない.どうやら材線虫は新しい運び屋と提携したらしい.

【補足と訂正】
 「東北地方には、マツノマダラカミキリは分布していない」と書きましたが、東北地方にも分布しているとのご指摘をいただきました。当時の環境庁の委員会では、東北地方ではカミキリムシが見つかっていないのに、松枯れ病が進行していることが話題となっていた。元々夜行性であり、多い昆虫ではないので、見つかっていなかったのではなかろうかと思われる。
2.見事な共同作業 (1987.03.31)

 松枯れ病の病原であるマツノザイセンチュウは,長さ数ミリの回虫を小型にしたような動物である.この材線虫が松に取り付くと,松は急速に弱って枯れてしまい,材線虫は枯れた松の材を食べて増殖する.材線虫は新しい松に移動する能力は小さく,新しい松に感染するためには,運び屋であるマツノマダラカミキリのお世話にならなければならない.

 マツノマダラカミキリは,夜行性の昆虫であることもあり,元来は,あまり採集されるカミキリムシではなかった.マツノマダラカミキリは枯れた松の材を食べて成長するが,健全な松を枯らす力はない.両者とも,子孫繁栄のためには,枯れた松の存在が必要である.かくして病原性の材線虫と,運び屋のカミキリムシは,お互いの利益のために共同作業を行うことになる.

 マツノマダラカミキリは,枯れた松の材に産卵し,卵からかえった幼虫は,腐朽しつつある松材の中で材を食べつつ成長し,やがてサナギとなる.カミキリムシがサナギになると,材の中で生活していた材線虫は周辺に集まり,カミキリムシが羽化する際に体に乗り移り,その数は数万とも言われている.

 羽化したカミキリムシは,夜間飛びまわって松の葉を食べる.その際,材線虫は傷つけられた松の葉に乗り移り,新たな松に寄生を開始する.かくして,新しい松が枯れることになる.見事な共同作業と言う他はない.

 マツノザイセンチュウはアメリカからの帰化動物であると推定されている.自然界では寄主を全滅させるような強い病原性のあるものは少ない.寄主を全滅してしまえば,自らの食料を滅ぼしてしまう結果となり,自己の存在をも危うくしてしまうからである.

 古里のアメリカでは,日本のように猛威を振るっておらず,弱った松を枯らす程度であり,秩序ある生態系の一員として存在している.しかし,いったん新天地である日本に移住してしまうと,強い病原性を発揮してしまう.

 日本でも,弱った松を枯らす程度の協調関係になってほしいものである.立場は違うものの,なにやら日米の貿易摩擦と似ているところがある.
3.松林の歴史 (1987.04.01)

 松林は、昔はこんなに広く見られる林ではなかった。昔といっても、数千年前の話である。

 中国地方の低地ではシイノキなどの常緑広葉樹林が自然林として発達していた。現在では、自然林はわずかに神社やお寺の社叢(そう)として残っているにすぎない。こんな林は「お昼なお暗き」と言う言葉が似合う。夕暮れなどは恐ろしささえ感ぜられ、調査する際には必ずさい銭を入れることにしている。

 縄文時代や弥生時代には、このような林が広く覆っていたに相違なく、神社の周囲だけは、神の宿る神聖な林として残されてきたに違いない。

 シイノキなどの常緑広葉樹林が、現在のようなアカマツ林となったのはいつのころからであろうか。このことについては、花粉分析という手法によって、ある程度の解析が可能となってきた。花粉は分解されにくい物質でによってできており、湿原や池の底などではほぼ永久的に残る。秩序良く堆(たい)積した場所でボーリングを行い、化石花粉を調べると過去の森林の様子がわかる。

 これによると松が増加し、常緑広葉樹が減少し始めたのは、今から約千五百年前ごろからであり、約五百年前ごろには松林が広い面積を占めるに至ったらしい。

 農耕が開始されたのは、縄文時代の終わりごろであると考えられているが、そのころは人口が少なく、あまり自然破壊は生じていなかったのであろう。五百年ごろからは、人口も増大し、生活様式も変化して、人間の生活に多量の燃料が必要となり周辺の森林は急速に破壊され、アカマツ林が広く発達したものと思われる。

 江戸時代末期から明治にかけての都市周辺では、森林の荒廃はすさまじいものであった。各地で木が切られ、土砂は流失して川床は高くなり、洪水が頻繁に起きた。その後、治山事業により植林が行われ、山に緑が回復してきた。これにともなって、各地でマツタケが大量に取れ始める。現在では高価なマツタケも「けっとばし」と言われた時代であった。

 現在の山の緑は家庭燃料が薪(まき)から石油やプロパンなどの化石燃料に取って代わられたために、伐採されずに育ったものである。石油の埋蔵量については枯渇が叫ばれて久しい。これらの化石燃料に代わる安全性の高いエネルギー源が開発されなければ、石油の枯渇と同時に、山の緑も瞬時になくなってしまうであろう。
4.苦節十年 (1987.04.02)

 松枯れ病の流行当時は、松枯れは無差別であり、日本の松は全滅するのではないかとさえ言われてきた。

 東北地方では、依然として猛威をふるっているものの、中国地方では、一部の地域を除いて終息状況になっている。
松枯れが一応、終息した現在、激害地においてもかなりの松が残っている。

 松枯れの跡地を調べ、被害が大きかった松の条件を挙げてみると、次のようないくつかの傾向がみられる。

 成長した大きな松ほど枯れやすく、高木の下で細々と生きてきた成長の悪い松ほど残りやすい。年を取った松ほど枯れやすく、若い松ほど枯れにくい。平地や山すその松ほど枯れやすく、尾根や頂上などの松は残りやすい。下ばえの茂った松ほど被害が大きく、下生えの少ない林ほど枯れにくい。海抜が高いほど枯れにくく、三百b以上の山地では被害がほとんどない。花崗岩の山では枯れにくく、堆積岩の地域では枯れやすい。

 これらのことをまとめてみると、水分条件の良い場所で、大きく育ったマツほど被害に遭いやすいことになる。ようやく用材として伐採可能になった松が、次々と枯れ始めたころの育林家の心情は、察して余りある。残ったマツは成長が悪く、細くてひねくれたものが多い。松の年輪を調べてみると、大きく育った"健康優良児"のアカマツと、その下で細々と生きてきたアカマツの年輪は、ほぼ同じであることが分かった。枯れ残った松は勢いを取り戻し、背丈も高くなり、「年輪」は急激に幅が広くなっている。

 出遅れて何十年も耐え忍んできた松が、松枯れによって高木が次々と枯れていった時、出遅れた松は「シメシメ、ようやく俺の時代が来た」と、思ったに違いない。ひねくれ松の「苦節十年」である。

 しかし、図に乗って大きくなってしまうと、再び松枯れ病が流行した時には被害に遭う可能性もある。
5.永遠の放浪 (1987.04.03)

 松は裸地にいち早く侵入するパイオニアである。

 松の種子は一枚のプロペラ状の羽を持っている。秋の天気の良い日に松かさが開き、クルクル舞いながら新天地を求めて風まかせの旅をする。

 松の種子は、日光に当たると良く発芽する。松の種子をまくとき、種に土を深くかぶせるとなかなか発芽してこない。たまりかねて、ほじくたっりするとかえって良い結果になる。したがって、厚く落ち葉が覆った林の中では、なかなか芽生えることができない。

 このようなことから松林を育てるためには、低木や草などをすべて刈り払い、落ち葉も取り除く「山掃除」を行う必要がある。

 松林にはコバノミツバツツジや、ヤマツツジなどツツジ類がたくさん生えており、春の山行を楽しませてくれる。ツツジも発芽には日光が欲しい植物である。かくして、松とツツジは友達のように振る舞っているのである。

 松林の中では、ほとんどの松の幼樹や、芽生えを見つけることができない。小さな松があったとしても、それは高木の松とほぼ同じ年齢であり、出遅れってしまったために、成長できなかったものである場合が多い。

 松林は森林としては明るい林であるが、松の幼樹が育つには暗すぎるのである。松は強い光が必要な植物であり、松林の中では育つことができない。松林の下生えを調べてみると、コナラやアベマキなどの落葉広葉樹が勢力をのばしつつあり、アラカシなどの常緑広葉樹も生長しつつある。やがては、これらの樹木がアカマツに取って代わり、尾根や岩場を除いて広葉樹の林となってしまうであろう。

 痩せた裸地に定着し、営々として築いてきた見事な林も、やがては、広葉樹に明け渡さなければならない宿命である。松は裸地を求めて旅をする、永遠の放浪者である。
6.武士は食わねど・・・・ (1987.04.06)

 既に松枯れの被害に遭いやすい松は、水分条件の良い場所に育った成長良好な松であると書いた。これはどうしてであろうか。現在、研究が行われている段階である。が、少し大胆に推測してみたい。

 時々しか水をやらぬ松と、適度な給水を行う松に材線虫を接種する。時々しか給水しない松は枯れるが、適度な給水を受けたものでは一時的に松枯れ病の症状はでるものの、回復するものが多いことがわかった。

 つまり水不足の状態では抵抗性が低く、十分な水があれば、材線虫が寄生しても枯れにくいわけである。この実験結果は水分条件の良い場所に生える松は枯れやすく、頂上や尾根の松が枯れにくいことと矛盾している。

 松枯れの激しい林に入ってみると、コナラやアラカシなどの広葉樹が繁茂し、松が生えていた点を除けば、実は広葉樹林であった場合が多い。松が侵入した時点では、裸地であった場所が、豊かな森林に変わってしまっている。

 一方、尾根などの松林では、松と競合する樹木は少なく、松が定着した段階と大きな違いがない。アカマツは岩峰などに生育する乾燥に強い針葉樹である。しかし、肥沃な土地に定着し、そこに合った体を作ってきた松は、後から侵入してきた競争相手との水の奪い合いに後れをとっているらしい。どうやら、松は定着してからの環境の変化に適応する能力が低いようである。

 尾根などに発達した松林のメンバーは、水分節約型の植物ばかりであり、少ない水を倹約して使っている。一方、水分条件の良い場所では、次第に水分消費型の植物が繁茂し、森林全体として水分の消費量が大きくなり、雨が適度に降る季節には良いものの、乾期には徹底的に水が使用され、松も含めてかなりの水の欠乏に悩んでいるらしい。

 岡山の夏は晴天が続き、雨がほとんど降らない。二ヶ月以上も雨が降らないと山も次第に枯れ始め、広葉樹が葉を落とし始める。しかし、松は極度の乾燥にもそそとしたたたずまいで、何の影響もないような顔をしている。広葉樹は水分条件の良い場所に生えるものが多いが、極度な乾燥では、葉を落として急場をしのぐことができる融通性を持っている。

 しかし、常緑の針葉樹であるアカマツは、ひたすら耐えるのみで落葉の機構を持っていない。素知らぬ顔をしていながら実は火の車であろう。武士は食わねど高楊枝(ようじ)である。
【関係項目 松枯れ病 / マツの年輪に刻まれた歴史 / マツ枯れ /マツノマダラカミキリ / クロマツの古里

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