湿原を移植するに至った背景と移植技術
本稿は岡山県自然保護センター開設10周年記念シンポジウム
「湿原移設の成果と評価」
の趣旨説明としての講演要旨を再掲したものである。
シンポジウムの内容は加筆の上、自然保護センター研究紀要No.9に掲載されている。
1.なぜ湿原を動かしたのか?
大規模開発では、地域の生態系に重大な影響を与える可能性がある。これを回避・低減するために環境アセスメントが実施される。アセスメントの結果、貴重な生物・生態系の存在が明らかになると、影響の回避が検討され、回避が困難であると移植が検討されることになる。どのような対応になるのかは、開発の社会的価値と自然の貴重さの綱引きとなるが、開発圧力が強いのはアセスメントの性格上、致し方ない。
(1)保護技術の未熟さ
貴重な生物は、その希少さもあってライフサイクルすら把握できていない事が多い。どのような環境がポイントなのか、全くの手探り状態である。成体の移植と生育が成功しても、繁殖させることができない例も多く、全ての条件を満たす、新たな環境を創造することは容易ではない。未知の世界であるといっても良い。
保護・保全に関する知識と技術が不十分な段階においては、安易な名目だけの移植は全く保護の対策をとらなかった場合とあまり違いはない。結果的には、回避するか、消滅させるかの二者選択しかないことになる。
基礎的研究に支えられた保護・保全の技術は、消滅させざるを得なかった自然の保護・保全に1つの光明を与えることになると考えた。
(2)温暖な地に発達する湿原の永続性
湿原の研究に携わる中、自然性が高いといわれる湿原植生も森林伐採や山林火災などの人為に強く影響されて発生したことがわかった。成立に水環境とともに強い日照が必要な湿原植生は、周辺の森林植生とは対立関係にある生態系であり、周辺の森林が発達すると、面積が狭い湿地は日照が不足し、やがて消滅してしまう。
温暖な低地に発達する湿原の多くは、このような人為の元に発生した要素が強く、開発を回避できたとしても、そのままではやがて消滅してしまう可能性があるわけである。逆に言えば、湿原成立に至る人為がもたらした環境を再現できれば、湿原植生を創造する事も可能であることになり、放置して保全するよりもより長期間、安定的に保全できる可能性があることにもなる。
そのような中、1つの地域の中に20カ所も小さな湿原が存在する開発が計画された。調査・検討・交渉の結果、開発地域に発達する湿原の内、半数は残すこと、残される湿原は良好なものであること、湿原の面積を拡大し、可能な限り移植すること等の条件のもと、開発地域に残される湿原の面積拡大工事と移植が行われた。消滅する湿原の植生の一部は、自然保護センターに搬入され、湿原造成における貴重な植物となった。
2.湿原移設の考え方
(1)移植は面積拡大が原則
湿原植生のような自然性の高い生態系では、それぞれの生物は、許容できる最大限の量が生育・生息していると見るべきである。様々な植物は、たくさんの種子を形成し、散布しているが、生長できるのはその場にあった個体数であり、現在の生育個体数はその環境が許容した量なのである。したがって、単なる移植は生育個体の過密化を招き、生存競争が激化するために、やがて生育個体は元の許容された個体数にまで減少してしまう。満員電車に余分な人を押し込めば、誰かが押し出されてしまうだけなのである。移植は、生育地の拡大・創造を伴う必要がある。
(2)湿原の造成は、湿原のある場所で
湿原の成立基盤である水環境は、貧栄養な水であること、常に湿潤状態が保たれる必要があるが水の流れは停滞しないこと、降雨時にも濁流が流れないこと、などの矛盾した要素を含む、微妙な条件を備える必要がある。このような微妙な水条件を備えた場所は希であり、湿原が希少であるのは当然である。
現在、湿原植生が発達している立地は、上記のような水環境を備えている。しかしながら、地形的要因により、湿原面積が限定されている場合がほとんどである。このような場合には、既存の湿原下流側の地形を改変することにより、湿原面積を広げることが可能である。このような人工的な地形改変は、湿原の浸食防止にも大きく貢献することになり、長期間にわたる湿原の存続を保証することにもなる。湿原の創造は、わずかではあっても現在湿原が存在している場所で行う必要がある。
(3)植生をそのまま移植せず、植物を移植して後は植生遷移にまかせる
湿原植生の移植では、湿原をブロックに切り取り、そのまま移植地で再構成して復元する試みが行われている。非常に困難な大事業であったが、不成功に終わった。湿原全体をごっそりそのまま移植することは、現実にはできなかったのである。
自然保護センターなどでは、掘り取った湿原植生は、小さな株として植え広げられた。まるで田植えのようなものである。つまり、植物は移植したが、群落としての再現は、移植された植物が勝手に増えて修復する、自然の遷移に任せたわけである。この方針は、結果として良い結果をもたらした。
3.自然保護センターの湿原創造
自然保護センターでは、湿原を新たに造成することが、あらかじめ決められていた。これは本末転倒であり、湿原を造成するのならば、それが可能な立地を探し出すことから始められる必要があった。現地に行ってみると、基盤整備された水田が広がっていた。水質を調査すると、幸いにも湿原植生を成立させることができる程度のものであった。今から振り返ってみると、この水田は湿原を開墾して作られたものであったに違いない。
全く存在しない場所における湿原の創造は、最初の試みであり、非常に大規模であることもあって、様々な試みが行われた。失敗であった事項もあるし、存外に良好な成果を収めた試みもある。手放しで喜べる状態ではないが、10年という歳月を経た現時点では、一応の成功ではないかと思う。現状に至るまでには、多くの方々の献身的・継続的な協力・尽力があった。感謝したい。