ジャガイモ Solanum tuberosum (ナス科 ナス属)
ジャガイモのイモは茎
イモは根が肥大したものや地下茎が肥大したものがある。ジャガイモのイモは地下茎が栄養を貯蔵して肥大したものである。茎であるので、イモ全体に点々と芽がある。したがって大きなイモを植えるとたくさんの芽から発芽したくさんの茎ができる。畑に種芋を植えるときには、小さなイモはそのままで植えつけるが、大きなイモは芽が1つ以上あるようにいくつかに切り分け、傷口が痛まないように切り口にワラ灰を塗りつけて植えつける。
ジャガイモの毒
ジャガイモはソラニン(グリコアルカロイド)という有毒物質を含んでいる。ジャガイモ全体としては、このソラニンは0.02%ほど含まれており、メークインを一度に2.5kgほど食べると中毒するレベルであるという。もっとも、メークインを一日に7kg食べたとの古いアイルランドの記録があるので、適切に調理すれば、中毒する事はないはずである。
このソラニンは皮層に多く含まれており、伸び始めた芽の根元部分にも多く含まれている。したがって発芽し始めたジャガイモの芽の部分は大きめに、緑色を帯びたイモの皮の部分は厚めに剥いた方がよいことになる。
考えてみると、ジャガイモ自身は動物に食べられるためにイモを作っているわけではないので、食べられないように何らかの防御対策を講じているのは、当たり前である。皮層や芽の部分にソラニンの含有量が多いのは毒物の配置としては、これまた当然です。中心部のソラニン含有量は非常に少ないので、皮を剥けば特に気にする必要はないことになる。
人類はソラニンの含有量が少ない品種を選抜しているはずなので、野生のジャガイモはもっと含有量が多いのでしょうね。
ポマト
ジャガイモはナス科であり、トマトとも同属である。以前にジャガイモとトマトを細胞融合させ、ポマトと名付けられたものが作られた。地下にはジャガイモができ、地上部にトマトができれば、果実を収穫でき、その後にイモがとれるという理想的な作物ができるはずであった。実際には小さなトマトと小さなジャガイモしかできず、実用化には至らなかったようである。
考えてみれば、光合成で得られる産物量が同じである条件では地下部(イモ)への配分と地上部(果実)への配分を行えば、「二兎を追えば一兎をも得ず」になってしまうのは自明の理であった。トマトは果実(種子)で繁殖する植物であり、ジャガイモは地下部(イモ)への資源配分を行う戦略を採用しており、どちらも十分にとはいかないのである。
ジャガイモと西部開拓史
ヨーロッパに広がったジャガイモ栽培は、特に冷涼の地で大きな成果をあげることとなり、その結果大幅に人口が増大することになった。アイルランドではジャガイモの栽培によって人口が二倍になった。緯度でいえば、イギリス南部は北緯50゜北部で北緯60゜ほどである。北海道の北部は北緯45゜前後、イギリスの南部を通る北緯50゜の線はサハリンの中部を通過している。暖流の影響があるので一概には言えないが、アイルランドの気候は随分と冷涼に違いない。このような冷涼な地域にもたらされたジャガイモは画期的な作物であったに違いない。
19世紀のはじめに300万人であったアイルランドの人口は、わずか40年間で800万人に増加したという。このような人口の増加が多量の労働人口を発生させ、産業革命の基盤となったという説もある。このような急激な人口の増加の中、1845年にジャガイモの腐敗病が発生した。貯蔵していたイモだけではなく、ジャガイモ畑のイモも腐敗し、大きな被害が発生した。この腐敗病は湿度が高い場所で大きな被害を発生させたので、湿度の高いアイルランドでは特に甚大な被害となった。ジャガイモは栄養繁殖が主体であるので、広がったのは単一の品種であったのであろう。単一品種を広い面積で栽培することの危険性を示している。
ジャガイモによって急増した人口は、ジャガイモの全滅によってその分が減少せざるを得ないことになる。100万人が餓死し、500万人が国を離れた結果、アイルランドの人口はジャガイモ導入時点よりも少なくなってしまったのである。この大量の国を離れた人々はどこに行ったのであろうか? ヨーロッパ本土も同様な状況であったので、新天地を求めてアメリカ大陸にわたることになる。この時点で東部海岸はすでに開発が進行していたので、行き先は未開の地である西部海岸がターゲットとなった。インディアンと戦いながらの大量の住民移動はこのようなジャガイモの疫病が原因であることは、西部開拓史の中ではあまり記述されていない。ある見方からすれば、西部開拓史はレミングの集団移動を連想してしまう。