コケをもっとわかるために(特別寄稿)
コケ植物とその生育環境
−生態屋から見た独断的コケ植物の姿−
岡山理科大学総合情報学部
生物地球システム学科 波田善夫
はじめに
湿原の研究を行っている中、コケ植物にはずいぶんと悩まされた。特にミズゴケ湿原におけるミズゴケの分類は大変であった。植生調査の中採集した標本の中から数種類のミズゴケが確認できる場合もあるからである。ミズゴケ湿原だけでなく、温暖な地域の湿原においてもコケ植物が多数出現する。構成種の少ない湿原の調査の中で、生育するコケ植物は、環境と大きな結びつきがあることに気づくことになった。
そのような観点で眺めると、湿原以外の立地でも、コケが活き活きとして自らの立場を主張していることに気づく。独断的であることを恐れず、生態屋から見たコケ植物について述べてみたい。
1.体制が単純
コケ植物は1〜数細胞の厚みで植物体が構成されている。したがって、種子植物やシダ植物に比べ、細胞あたりの外界に接する面積が比較にならないほど広いことになる。ほとんどの細胞が、外界に直接接しているということがコケ植物の特性であるともいえよう。コケ植物は、特別な通導組織(仮導管など)を持たない。したがって、細胞間の物質交換は、細胞が接した部分のみで行われていることになる。このサイズの植物では、その程度の通導能力で十分なのであろう。
栄養塩類や水分の吸収、二酸化炭素の吸収や酸素の放出は、植物体の表面から行われることになる。このような物質交換は、高等植物ではそれぞれ特殊な構造を持った器官や組織で行われるわけで、ほとんどの細胞は外界からの影響を最小限にとどめることができるよう、表皮組織などによってプロテクトされている。コケ植物は体表で物質交換を行うシステムを採用せざるを得ないので、当然のことならが、外界の影響を強く受ける。逆に言えば、大きな環境変動に伴う細胞内の変動に耐える能力を持つことなしに、このような単純な体制で生育することは不可能なはずである。単純な体制であるが故に、高度な環境変動への耐性能力を持っていなくてはならない。
2.コケと水
多くの植物は、光合成の材料として必要な水分以上に、「積極的」と言ってよいほどの水分を蒸散させている。これは、栄養分を含んだ水を根圏に引き寄せるためであるが、コケ植物は体表表面全体から水や栄養分を吸収するシステムであるために、そのような積極的な水分蒸散は必要ない。逆に、水を引き寄せてしまうと、蒸発によって植物体の周辺には不要な塩類が集積してしまう問題が発生する。乾燥する際に、コケの植物体にカルシウムなどの塩類が集積し、結晶となってしまうような状態は、是非とも避けなければならない。逆に言えば、そのような現象が生じやすい環境ではコケ植物は生育しにくいはずである。常に塩類が流れさる環境、即ち「溶脱」である。樹幹や岩上などは、雨水が流れ去ってしまうので、塩類の乏しい溶脱環境の典型である。
降雨によって浸透した水の一部は土壌中で毛管水として存在し、晴天時には再び地表面へと吸い上げられる。この水は土壌中の塩類を溶かし込んでいるので、土壌表面は、乾燥によって塩類の集積がおこりやすいことになる。乾燥にともなう毛管水の上方移動は粘土を多く含む土壌で発生しやすく、砂質土壌ではほとんど発生しない。エゾスナゴケが強い日照の当たる場所に生育できるのは、砂質土壌であるためと考えている。ハイゴケやホソバオキナゴケなどが花崗岩地の尾根筋などに生育するのも、透水性が高い砂質土壌であることが大きな要素であろう。
水分の多い場所に生育するコケでは、乾燥すると塩類が集積してしまうことから逃れることができない。したがって、空中湿度が高くて蒸発しにくい環境であるか、滝や渓流などのように、常に飛沫がある場所でなければ、コケは生育できないことになる。ミズゴケは水の多い湿原に生育するが、蒸発量の多い温暖な地域では、空中湿度の高いイヌツゲ群落の下などにのみ生育できる。しかし、冷涼で雨量の多い地域では、強い日照のあたる場所でも、密なクッションを形成できるようになる。
3.コケの生育には、栄養分が必要ない?
ミズゴケを栽培してみると、蒸留水による培養がもっともよく生長する。栄養分を含んだ水で培養すると、ランソウなどの藻類が繁茂することもあって、枯死してしまう。ミズゴケ湿原では、雨水のみによって涵養される高層湿原で、もっともミズゴケの生育が良好であり、同様な現象であろう。このような貧栄養な環境で生育するミズゴケの栄養分の含有率は低く、これを分解(利用)するバクテリア・菌類の活性は低く、摂食する動物もほとんどいない。ミズゴケは分解しにくく、その結果として泥炭を形成しやすい。
ミズゴケだけではなく、多くの蘚類はたんぱく質などの栄養分をあまり含んでおらず、菌類などに利用されることが少なく、腐りにくいのではないかと考えている。ミズゴケやホソバオキナゴケ(山苔)はそのような性質に着目されて、園芸用資材として活用されている。蘚類の先端部分は毎年成長し、群落としては高くなり、あるいは広がっていく。前年の植物体が容易に分解されるならば、コケ植物は付着している基盤と簡単にはがれてしまうであろう。サガリゴケなどが枝からぶら下がる蘚苔林も、ありえないことになる。コケ植物の標本が虫に食われてしまった経験はない。この点はシダ植物とも共通性がある。
被子植物の多くは、花粉の媒介や種子の散布に際して動物の存在を前提としている。落葉の際には、たんぱく質などの重要な細胞構成成分を完全には回収せず、土壌菌類や動物へと提供している。提供した栄養分は分解され、再び植物に吸収され、利用されることになる。物質は様々な動植物の間を形を変えて移行し、スムーズな物質循環が形成され、結果的に豊かな生態系が形成される。分解されにくいコケ植物の繁茂は、物質循環を停滞させる。物質循環の停滞は、立地環境の貧化を意味する。栄養塩類の循環率の低い世界が、コケ・シダ・(裸子植物?)などの生育する古いタイプの生態系であり、これらが優占する生態系には基本的に昆虫類・鳥類・哺乳類などが絡まない。
4.コケの環境形成能力
湿原におけるミズゴケは主役であり、特に冷涼な地域の湿原においては、大きな環境形成能力を持っている。ミズゴケは年々成長して泥炭を形成し、活けるスポンジは拡大し、湿原は成長していく。ミズゴケ湿原に生育する種子植物は、年々成長する「地面」に対応しての上方移動能力が高い種、貧栄養な環境に対して耐えることができる種のみが生育可能である。このようなコケ植物による環境形成は、湿原のみなのであろうか? 岩上や崖などに発達するコケの群落を見ていると、コケが立地を占有し、自らの生育可能立地を維持しているように思えてくる。
コケ植物は物質循環を停滞させ、貧栄養な環境を形成し、維持する戦略である。火山から噴出した溶岩上の植生遷移では、最初にコケの群落が形成され、コケによる土壌形成が、遷移に大きく貢献しているとされている。これは現象を解釈したに過ぎず、コケの側から見れば、高等植物の進入をお膳立てし、遷移を促進させるつもりはさらさらないはずである。京都の苔寺の苔庭で、「除草が大変である」といった話は聞いたことがない。コケ植物は、高等植物の進入・定着を阻止し、自らの生育環境を創りだし、維持しようとしているはずである。
5.大型化を目指した植物:小型化を選択した植物
光を獲得するために、他の植物よりも葉を高く持ち上げることを目指した植物の、究極の姿の1つが樹木である。大きな植物が繁茂すると、小さな隙間ができてくる。例えば、10mの高さの植物が繁茂すると、その下層には数mの高さの植物が生育可能な隙間空間が残される。更にその下層には、数十cm程度の高さを持つ植物の生育空間が存在する。その下にはコケの生育が可能なスペースが残されることになる。もちろん、それより小さな空間にプランクトンの生育空間が存在している。
植物として大型化を目指すか、あいた空間を最大限に利用するために小型化を選択するかについては、様々な段階で多様なトライアンドエラーが行われたはずであり、現在の姿はその結果である。シダ植物は、歴史的には大型化を目指したが、大型化したシダ植物の多くはその後に進化した種子植物との競争に敗れ、中程度の大きさの種が主体となっている。
コケ植物は小型化を選択した植物群であり、少なくとも小さなものしか残っていない。小さくなるためにはどのような対策が必要であろうか? 例えば、ミジンコのような小型の節足動物は、質量の割に表面積が大きいために特別な呼吸器官は分化しておらず、循環器官らしきものもない。体内における拡散で十分事足りるわけである。すなわち、小型化と通導組織などの不要性(節約)は連動しているわけである。
小型化の方策の1つとして、細胞を小さくする方法がある。「核細胞質比は一定」であることがコケでも成り立つとすれば、2nの世代を充実させる方法を採るべきではなく、n世代を中心としたライフサイクルを採用すべきである。かくして、2n世代はn世代に寄生する状態へと退化することになった(眉唾です)。
巨大化を目指したダイエーは破綻した。しかし、大規模店舗の増加は、小型店舗のコンビニを誕生させることになった。小型化のメカニズムは別として、小型化を選択したコケ植物はそれなりに成果を収めている。
6.コケの環境指標性
コケ植物は、体制が単純であるだけに、生育可能な環境は限られているはずであり、環境指標性は高いはずである。個々の種と環境との対応関係に関しては、今後の成果に待たなければならないが、ここでは大まかな着眼点について述べてみよう。
a.立地の特性とコケの生育
コケは小型であることが大きな特徴である。コケ植物の生育にとって、大量の落葉堆積は決定的なダメージとなる。降り積もった落葉の下から、光を求めて成長できるほどの成長量・速度をコケ植物は持ち合わせていない。したがって、森林の林床にコケ植物が生育していたならば、その場所は落葉量が少ない、あるいは落葉が滞留しにくい場所であることを示している。具体的には、痩悪地に発達するアカマツ林では、ハイゴケ、ホソバオキナゴケなどの蘚類やトゲシバリ・ハナゴケなどの地衣類の生育が目立つ。アカマツ林の生産量は少なく、落葉量は少ない。アカマツの落葉は、ハイゴケの生育には大きな日照阻害とはならず、ハイゴケの匍匐成長によって十分克服できるものである。
風が強く、落葉が吹き飛ばされる場所では、生産性の高いコナラ林であっても地表にコケが生育することがある。山道にコケが多いのも同様な理由による。もちろん、落葉が堆積しない急傾斜地ではコケの生育が可能である。全般的に、地表面にコケ植物が生育している場所は、痩せ地であると考えてよかろう。
b.空中湿度とその変動
空気中の湿度は、コケ植物の生育に大きな影響を与えているはずである。湿度の量は、おそらく飽和水蒸気量程度の湿度が夜間にあれば、とりあえず十分なのではないかと思っている。夜の生態学の実践が必要なのであろう。昼の状態から夜間の姿を推量したい。
c.土地の遍歴
コケ植物は、胞子からの発芽あるいは植物体の断片などによる栄養繁殖によって定着し、群落を形成する。どちらにしても非常に微小な繁殖子からスタートする。したがって、群落の発生時においては、その立地は裸地であったはずである。しかも、速やかに種子植物の侵入が発生しなかったことに、留意しなくてはならない。コケの生育している場所は、裸地であった経歴を持つ。
d.地質的要因
石灰岩や蛇紋岩地域において、特殊なコケ植物が生育することに関しては留意する必要がある。その原因については、母岩の化学成分が影響する場合もあるが、多くは特殊な地形に依存している現象と考えている。石灰岩地域では露岩や急崖などの特有な地形が形成されやすく、蛇紋岩地帯では一般に樹木の生育が不良である。そのような立地ではコケ植物の生育可能立地が形成されやすく、水分条件・日照条件・空中湿度などの条件に対応したコケが生育する。
7.コケとのお付き合い
同定できなければ、科学としての生態学は成り立たない。まずは分類学がある程度の段階まで進まないと、その後の発展はないわけであるが、コケの同定は簡単ではない。優秀なコレクターは、生態にも通じているのが普通である。生態的特性を把握できないと、ちゃんとした採集は困難である。
コケ植物はその分類の困難さのために、分類・同定に関する作業が大きなものとなってしまいがちであるが、コケを理解するためには、繁殖・発生・発達の過程を把握する必要があり、他種との競争・競合の過程と戦略を理解する必要がある。コケを生育させることができて、はじめてコケを理解することができたと言いたい。分類学と生態学は車の両輪でなければならない。
(はだよしお:岡山理科大学)
「岡山コケの会ニュース」に掲載 (2006、No.22 pp.28-31.)
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